アムネジア

「だれかのことを想うと、心ってとても不自由なのね」
 あなたはかわいらしく首をかしげた。
 穏やかな昼下がり。薄いカーテンをゆると震わせた風が、私のほほに触れる。
「そう・・・・・・好かれたいと思うね。できるだけ嫌いになりたくはないし、怒らせたくもない。笑っていてほしいと思う。そして、自分のことは言えない」
 私のこたえに、紅茶のカップを口元に寄せたあなたは、微笑む。
「でも、あなたは笑っているね? 嬉しかったのかな」
「ええ」


 日差しがあなたの形のいい輪郭をやわらかく包んでいた。
「とても軽やかに思えるよ」
 庭のみどりは美しく。軽やかな鳥の声が部屋の中でもおどる。
「きっと、わすれてしまったからね」
 私は黙ってカップの中の深紅の液体を日に透かして見ていた。
「みんな、おぼえていたのだけど」
「・・・・・・あなたにも、深く連なっていた人がいたのだろうね」
「ええ。ひとりぼっちで泣いていたけれど、呼んでいたのかもしれないわ」
 とうめいな視線。テーブルに揺れる、反射のひかり。
「それも、忘れてしまった?」
「わすれてしまっても、良かったの。きっと。とてもたくさん、あいしたから」
 私は、自分が笑みを浮かべているのだと思った。


「私のことも、もう憶えてはいないだろうね」
 あなたは、そのとき初めて私の顔をみつめた。
 ほほを縁取るきんいろ。
 ゆっくりと手に持ったカップを置いた。なみうつ深紅。


 私のほほを、両手で挟んで。くちびるが音を忠実になぞる。
「とてもたくさん、あいしたから」
 無邪気なしぐさで。


「私はあなたを愛しているよ。ずっと。いまも」
「たりないのね」
 あなたは、私のほほをなでた。
 あなたの手がぬれていた。
 私は泣いていたようだ。


「・・・・・・そう。まだとても足りない。あなたを忘れても悔いがないほどには」


「こわがらないで」
 あなたは私の涙にくちづけた。
「わすれてしまうことは、あいを失うことではないわ」
 おこりのように私ののどが震える。
「想うことの不自由さから解き放たれること」
 私のみみに、あなたはささやく。
「あいしたことは、ほんとうだもの」


 私はなにもできず。
 はかなくなってしまいそうなあなたをたいそう強く抱きしめた。


Fin June 1, 2004 Hira



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送