異郷

 乗り込む直前、彼女は手を振った。
 彼女はこれから、『ふるさと』をその目で確かめにいくのだ。
 いつ戻れるとも知れない旅路を、この太虚の彼方、深奥なる宇宙へと。
 ・・・・・・やがて、圧倒的質量の大気が総てを押し流す。
 私の、ささやかな感傷さえも。


「パンスペルミア説?」
 訊き返すと、彼女はシェリーグラスの細い脚をつまんで微笑んだ。
「なかなか・・・・・・大胆ですね。それ、サブじゃなくてメインなんでしょう? 冒険ですよ」
「しかもフライト人員に選ばれたの。私」
 ほろ酔い気分、といったところだろうか。彼女の頬は少し赤い。
 静かなピアノの旋律は、アレンジされたパッヘルベルのカノンだ。
「・・・・・・他には、どんな人がいるんです?」
「マクロイド部長に、ジェファソン大尉」
「ベテランですね。大抜擢じゃないですか」
 私は挙げられた人名を頭の中で視覚化した。四角い顔の、旧来のエンジニア然としたマクロイド部長。インテリ軍人で、細面のジェファソン大尉。彼の潔癖さには辟易させられるが、技術は確かだ。
 そして、向かいに座る彼女に視線を転じる。
 私より3年早く宇宙局に入った彼女は、栗色のゆったりとした髪を持つ知的な美人だ。ワーカホリックで、浮いた話はあまり聞かない。彼女にとって私はたまに食事を共にする後輩にすぎないだろう。私のほうの感情は、それほど単純ではなかったが。
「君はこのプロジェクトに反対?」
「え? いえ、そんなことは」
 反射的にそう答えはしたものの、私は内実驚きを隠せないでいた。
 それほど浮かない顔でもしていたのだろうか。私は、自分ではあまり感情を表に出さないほうだと思っていたのだけれど。
「反対じゃないですよ」
 付け足して、微笑んで見せる。
 正面から反対できるほど、私は強い論理を持ち合わせていないのだ。
「それじゃあ不満?」
「そういうことでなく・・・・・・ただ、驚いたんです。企画部って、案外ロマンチストの集団なんですね? パンスペルミアなんていうお伽噺を主軸にすえるんですから」
 彼女はおかしそうに頬に笑みを刻んだ。
「信じてないんだ? 私は結構この考え、好きなんだけどな。 生命わたしたちが、この宇宙のどこか別のところで生まれて、たまたまたどり着いた星が地球だったとしたら、どこか遠くで別の『兄弟』たちが私たちの星を見上げてるかもしれないじゃない? それって素敵だと思うの」
 惑星は肉眼では見えませんよ、といおうと思ったが止めにした。
 私たちには不可能だが、『兄弟』とやらには可能かもしれないのだ。
 何より、彼女の気持ちに水を差したくはない。私は多分、拗ねているだけなのだから。
 酒の味が苦い。
 ピアノの音が精神の喫水面をなでていく。
 不意に、昔読んだ本の一説が思い出される。
―――万有引力とは ひき合う孤独の力である―――
 この星に生きる60億もの孤独。
 それはなんと喧騒に満ちていることだろう。
 なのに何故我々だけでは補完しあえないのだろうか。
 ・・・・・・もとから、目的は補完ではないのかもしれない。
 散逸させるために、分かちあおうとする情動だろうか。
 私は無言のまま背の高いグラスを傾けた。
 そして熱っぽい浮遊感に促されるように言葉をつむぐ。
「それじゃあ僕らにとっても彼らにとっても、生まれて住んでいるそれぞれの場所は、
『ふるさと』なんかじゃないってことですね」
 言葉に対する彼女の表情を、返答を。私は今では思い出すことが出来ない。


 いつからか、夜空を眺めることが私の日課になった。
 目に届く光のいくつが、今もまだ存在していることだろう。
 見えないヴォイドのどれほどに、光を放つことのない星がひしめいているのだろう。
 そして私は寂しさに囚われる。
 『兄弟』や『ふるさと』に対するものではない。
 それらを求めて旅立っていった人への渇望だ。
 出会った人と共に時を過ごすことの出来ない寂しさだ。
 私は『異郷』に立ち、『ふるさと』をめぐる彼女をのぞむことしか出来ない。
 私はそれを睨んだ。
 当然のように、ノスタルジックな魅力を振りまくその言葉。
 私がここに存在しているという、それだけで、原初的紐帯からは逃れられないのだと主
張するような、一種の脅迫。
 導かれる人の多さに私は驚愕する。
 誰か一人、見知った人がいなくなるだけで夜を無為に潰すような私には。
 失うかも知れない大切なものなど、これ以上増やすことは出来ないというのに。



Fin January 21, 2004 Hira

*パンスペルミア説(生命地球外起源説):19c.アレニウス提唱
*文中の引用:谷川俊太郎『二十億光年の孤独』より

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