きっと、いつかは

「ホットケーキ食べたい」
「・・・・・・何?」
 出かけようとはおったオレの上着の裾を、女のこの小さな手が掴む。
「ホットケーキ」
 シエラと暮らして二年になる。もうすぐ四歳で、ふわふわの薄茶色い髪も肩まで伸びて、かわいい盛りといったところ。考えてみればホットケーキなんて食わせてやったことはないかもしれない。オレだってそんな家庭的なモンにお目にかかったのは数える ほどだ。片手でだってまだあまる。
「ホットケーキなんて、誰に聞いたんだ?」
「タイラー」
 養い子の即答に、オレは軽くため息をついた。


 
「あんまりいろいろ教えないでくれないか」
 いつものガンスミスのカウンター席。眼鏡をかけて照準機を調整している三十代後半の男――タイラーに言った。
「何の話だ」
「シエラだよ。あいつに何話したんだ。今朝、出掛けにホットケーキ食いたいって言われたよ」
「それで?」
「あんたに聞いたって言ってた。何て言ったの?」
 そこで始めて、彼はオレのほうを向いた。無造作にたらしたくすんだ金髪をかき回し、眼鏡をカウンターに置く。調整が終わったらしい。
「ホットケーキねえ。そんなこと言ったかな」
「シエラは嘘なんかつかないよ」
 彼の分のコーヒーを入れてやりながら言うと、タイラーは苦笑する。
「いっちょまえに親ばかだな。ああ、思い出したよ。この前預かったときだ。先週だったか?」
「何でホットケーキなんて話に?」
 彼はカップを受け取ると、少し遠くを見て考えた。
「確か読んでやった絵本だと思うが・・・・・・ホットケーキの話だったんだよな。それで訊かれたんだ。ホットケーキだぞ? いくらもしないだろう」
 タイラーの言葉に、オレはひとつ、ため息をつく。
「今、金ないんだよ。冬服とか、そろえたばっかだし・・・・・・最近訓練しかなくて仕事回ってこないし、朝飯にも困るくらいで。それでもあいつが何か物ねだることなんてほんとに珍しいから、だから何とか都合つけたいと思ってさ。あんたに何かバイト紹介してもらおうと思ったんだ。『ホットケーキ』教えたの、あんたなんだから」
「働くねぇ、勤労少年。バイト、バイト・・・・・・と。ここ、職安じゃないんだがな」
 なんて言いながらも、彼は端末で検索を始めた。なんだかんだ言っても面倒見はいいのだ。
 オレはコーヒーのおかわりをついだ。と、タイラーがさっきまで調整していた照準機が目に入る。
「・・・・・・それ、ヤスキの?」
 ヤスキ、というのはオレがいる組織の先輩の名前だ。すごいスナイパーだって評判だけど、オレはほんの二、三回しか彼を見たことがない。
「ん? ああ、そうだ。そういやあいつ、二時ごろ来るって言ったくせに遅いな・・・・・・」
と、彼は壁の時計を見上げた。針は二時半を指している。
「ヤスキ、この店によく来るの?」
「あいつもおれが組織に紹介したからな。仕事の前には顔を見せるよ。照準狂ってるとうるせーんだ」
「ふーん・・・・・・ねぇ、ヤスキがアシスタント探してるとかって、聞かない?」
「アシスタントぉ?」
 タイラーが振り向いた。
「何だ、お前もあいつに憧れてるってクチか?」
 オレは力いっぱいうなずく。
 組織の中に、ヤスキを意識してるやつは多い。オレみたいに、彼より年下のやつは憧れや目標として。たとえ年上だって、成績を考えれば彼を意識せざるを得ない。オレも、数多い前者の人間のうちの一人だった。
「かっこいいよ。ヤスキって入って二年で単独指名されたんだろ? 今だって組織のナンバーワンだ。憧れるよ」
 オレにはまだヤスキがやるような『やばい仕事』は回ってこない。でも、もう訓練は受けてる。同じ班の中には仕事を始めてるやつだって少なくない。むしろオレが遅いくらいなんだ。
 仕事を受けられるようになったら、シエラになんだって買ってやれる。もう、凍えるような夜をすごさなくてもいいんだ。
「やめとけやめとけ。あいつはアシスタントなんて取らないよ。・・・・・・お、これなんかどうだ? 迷子の犬探し。見つけた方に賞金百ドルだってよ」
「オレ本気で言ってるんだ。犬探しだって? そんなの見つかりっこないだろ」
「じゃあヤスキのアシスタントなら確実だって言うのか?」
 切り替えされて言葉が詰まる。タイラーの目はまじめだった。いつも軽口ばっか叩いてるから余計に、こういうとき凄みがある。
「そりゃ・・・・・・危ないのはわかってるけど」
「お前にゃまだ早い。『わかってる』なんてのはガキのせりふだ。かっこいいだけで何ができる。自分の行動にケツもてないお子様が人の命をどうこうできるなんて思うか? 甘ったれるんじゃない」
 オレが何も言い返せずうつむいていると、店の入り口のドアがなった。振り向くと、長いコートを着た中背の男が入ってきたところだった。一瞬、寒気が店の中を走る。
「寒いだろうが。さっさと閉めろ」
 タイラーが、その客に向かってどなった。男はひるまず軽く肩をすくめる。
「空気がよどんでいるんだ。またずっと締め切っていたんだろう」
 タイラーは男の言葉に苦笑した。
「時間に遅れてきてその言い草か・・・・・・入って来いよ。いつまでそんなとこに突っ立ってるんだ」
「この店に客がいるのは珍しいと思ってな。・・・・・・あんたの子どもか?」
「馬鹿野郎。お前の後輩だよ」
 歩いてきた男は、オレの隣まで来て立ち止まった。
「君はいくつだ?」
 見上げて気がついた。彼はヤスキだ。短く刈った黒い髪。異国風のすっと刷かれたような眉と涼しげな眼が印象的だ。年は・・・・・・タイラーより、一回りほど下だろうか。
 すぐにそれと気づけなかった原因は雰囲気だ。組織で見かけたときは、もっとずっと鋭い感じだった。今はあまりにも物柔らかで、スナイパーという雰囲気ではない。仕事じゃないから、リラックスしているのだろうか。
「十六歳・・・・・・です」
 彼は少しだけ目を細めて、オレの隣に腰を下ろした。
 うわ、心臓がばくばくいってる。あのヤスキだぞ? ほとんど伝説になってる彼が、オレの隣にいるんだ。知らず、耳が熱くなってきた。
 横目で見ると、ヤスキは照準機を受け取り、ためつすがめつしている。
「タイラー!」
 思わずオレが出した大声に、ヤスキとなにやら話をしていた彼は面食らったようにこちらを向いた。
「オレ、もう行くよ。その・・・・・・午後の訓練始まるし」
 そのまま、顔を上げずにドアを出ようとして、振り向く。
「訓練終わったらまた来るから、何かいいのあったら教えて」
 それだけ言って、返事も聞かずにオレは飛び出した。訓練が始まるのは嘘じゃなかった。だけどオレは、ヤスキから逃げたんだ。すごく緊張していて、もし彼に話しかけられたとしてもまともな受け答えなんてできそうにもなかった。



 正直な話、オレは自分のいる組織が、一体何の組織なのかよくは知らない。
 密売や暗殺や兵器開発や・・・・・・おおよそ、良識ある人が眉をひそめるような裏社会の仕事を取り仕切っているシンジケートだ、というのは人から聞いた話だが、あながち外れてはいないと思う。それもかなり巨大な、力のある組織だ。オレのようにもっぱら訓練を受けている予備員にはコードナンバーがついているが、オレが知っているだけでも頭にAからZまでのアルファベットがついて、それぞれ五〇番まである。中には欠番があるが、それでもすごい人数だ。『ヤスキ』のようにコードネームを持っている人間もいる。名前があるのは単独指令を受けるような人物だけだが、少なくとも百人はいるらしい。
 誰が何をしているのか把握も出来ないような巨大な組織で、みんながひとつのことを考えている。『今よりもっと上へ』だ。そんな中で、オレは本当にやっていけるんだろうか?  自分ひとりの生活だって満足にできるとは言えないのに、もう一人養おうなんてばかげてる。苦労させるだけだって、知ってる。だけどシエラは笑ってくれるんだ。仕事で何日も家を空けたときでも、お帰りなさいって言ってくれるんだ。オレは、あいつが笑ってくれるなら、何だってできる。
 今よりもっとずっと上へ登っていけば、どんな生活も夢じゃない。そう信じて、オレは訓練を受けている。だけど、オレが越す人の多さに、オレを越す人の多さに、時々見えなくなるんだ。
 ヤスキは、どうやってあそこまで登ったんだろう。
 オレは、どうやってあそこまで登ったらいいんだろう。
 ・・・・・・なんて事を訓練の間中考えていたら、案の定気が入っていないといわれ、教官に腕立てと腹筋を百回ずつ追加された。



 疲れ果てた体を引きずって夜の町を歩いた。
 タイラーの店は寂れた路地の一角にある。
 町の喧騒はあまり届いてこないし、うるさい呼び込みもいない。
 商売に向くとは言えない場所だが、何人かの常連客しか相手にしないタイラーにはここで充分なのだろう。
 看板も出ていないドアを開ける。
「タイラー、何か見つかった?」
 言ってから、オレは店内にタイラー以外の人間もいたことに気づいた。
 ヤスキが、オレに向かって手を振って見せる。
 あわてて頭を下げて、カウンターについた。
「あれからずっといたんですか?」
「暇人だからな」
 ヤスキへの問いに間髪いれず答えたのはタイラーだったが、確かにずいぶん時間はたっている。本当に暇なのかもしれない。失礼だけど、オレはそんなことを思う。
「訊いてみたい事があって、君を待っていた」
 苦笑で、ヤスキは頬杖をついた。
「オレを?」
 訊いてみたい事って、いったいなんだろう。ヤスキはオレにとってほとんど雲の上の人だ。何に興味を持ったのか、見当もつかなかった。
「組織に入って何年になる?」
「三年です」
「任務は?」
「班別なら、何回か・・・・・・まだ単独で動いたことは、ないですけど」
 言って、オレはなんだか恥ずかしくなる。そうだ、ヤスキは二年で指名されたんだもんな。ヤスキはオレがまだ名前も持っていないのを知ってどう思っただろう。
 彼はしばらく黙考していたが、やがて口を開いた。
「俺のアシスタントをやってみる気は?」
 オレは驚いて彼を見上げた。黒いすんだ目がオレを見つめる。とっさに言葉が出ない。
「おい、社会勉強はまだ早すぎやしないか?」
 タイラーがいぶかしむような声を上げるのが聞こえた。
 ヤスキは軽く片手をかざしてタイラーを制し、
「彼自身が決めることだ」
と、オレから目を離さずに言う。
 ヤスキは、オレのことを買ってくれたんだろうか?
 オレにも、彼のように登れる見込みがあるんだろうか?
 オレは・・・・・・彼に誘われたことだけでもう考えるとか、判断するとかもできないくらい舞い上がってしまって。
 胸の高鳴りに促されるように、つかえながら言った。
「あります、やりたいです。やらせてください!」
 タイラーが眉を上げるのが視界の隅に移ったが、どうでもいい。
 ヤスキはオレの答えに、ひとつうなずいた。



 もう、シエラは眠っているだろう。
 ぴっと張った夜気を吸い込み、安アパートの階段を登る。
 火照った頬と速い鼓動は収まる様子を見せない。
 今日は寝付けないかもしれないな。
 誇らしさと、緊張と。ほんの少しの怖さ。ほかにも言い表せないさまざまな感情が盛んに自己主張している。
 音を立てないように、そっと部屋のドアを開けた。
 オレが拾ってきたテーブルのふちに小さな頭を持たせかけて、シエラが眠っている。冷えた部屋で毛布にくるまっている彼女に、胸がつかれる。
 起こさないように気をつけて抱き上げ、古いベッドに寝かせる。シエラはそっと声を立てて寝返りを打った。
 頬の近くで握られたシエラの手を見つめる。
 小さな手だ。
 オレの半分もない、小さな手。
 何も掴んでこれなかったその手に、掴みきれないほどのものをもたせてやりたいと思った。それはきっと不可能ではないはずだ。
 オレは、シエラのあかぎれだらけの手を包んだ。
「ごめんな・・・・・・シエラ。オレ、がんばるからな」
 絶対に言葉だけで終わらせたりはしないからな。



 アシスタント初日。シエラを預けにタイラーの店に行くと、彼は言った。
「あいつの仕事はハードだぞ」
 そんなことわかってるさ。ヤスキが『やばい仕事』ばかり選んででもいるかのように請けることは有名だ。だからこそ余計に、彼の仕事の成功率の高さや能力が評価されるんだ。
 と、そのときのオレは思ったのだが。
 知っていただけでわかってはいなかったのだと、ちょうど今思い知らされていた。
 オレの足元の舗装が跳ねた。弾があたったようだ。
 音で判断するだけで、見る余裕なんてない。そんな余裕かましたら撃ち殺される。
 ただ、必死に走る。
「右へ」
 後ろを走るヤスキが低い声で言った。
 数歩前で路地が分かれてる。オレはジャンプして右側の道に頭から突っ込む。数回転がる。布袋をぎゅっと抱きしめて、背中を壁に押し当てた。
 銃声。三回聞こえた。
 いくつかのうめき声。
 沈黙。
 やがて、ヤスキが、オレのいる路地に姿を現した。
「持っているか?」
 目的語のないその問いに、オレはうなずく。いや、何回か痙攣したように見えただけかもしれない。オレは、腹の辺りに両腕で押し付けた布袋を彼に渡した。
 組織の奪還依頼品だ。
 彼は袋を空け、中身が入っていることを確認した。そして息をつく。
「大丈夫そうだな」
と、オレに視線を移し、自分の右の口角を指した。
「血が出ている。舌でもかんだか?」
 オレは彼が示したあたりに手をやった。指先が赤くぬれる。そういえば口の中で血の味がしている。うわ、気持ち悪い。つばを吐いてみたら真っ赤だった。
「口の内側、切ったみたいです。痛くはないんですけど」
 いったいいつだろう。オレは気づかないくらい緊張していたらしい。・・・・・・緊張が解けたら、痛くなるんだろうな、きっと。考えたくもないけど。
「無理もない」
「あ、あの・・・・・・オレ、何かヘマしませんでしたか?」
「ヘマ?」
「えっと、オレ、なんだか上がってて・・・・・・自分がやったこと把握してないっていうか、その」
 ああ、うまく言葉が出てこない。
 ヤスキは不思議そうな顔をしていたが、やがて得心したようだ。
「支障がなければヘマにはならない」
 よかった。オレは息をつく。
 露骨にほっとした顔をしていたのだろう。ヤスキは、少しだけ口の端を上げた。
 ああ、でもなあ・・・・・・。
 オレ、こんなんでほんとにやっていけるんだろうか。



 タイラーの店からシエラをつれて帰り、家で休んでいたら。
 シエラが近寄ってきて小首をかしげた。
「なに、どうした?」
 オレが訊くと、
「ぐあい、わるいの?」
 と彼女は逆に訊き返して小さな手をオレの額に当てた。熱を測るとか、そんな動作だ。
「さっきからため息ついてる。・・・・・・でも、お熱はないのね。けが、痛い?」
 と、また首をかしげる。そのしぐさがあまりにもかわいらしくて、オレは口元が緩むのを感じる。
「違うよ。あんまり痛くない、大丈夫。ただ、今日走り回ったしな。少し疲れたんだよ」
「つかれると、ため息出るの?」
「ん、・・・・・・ていうか・・・・・・」
 なんて、説明してやったらいいんだろう。
「オレが今日一緒に仕事した人、先輩なんだよ。ヤスキって言うんだけど、すげえかっこいい人でさ。オレはその人にかっこ悪いとこ見せたくないんだ。だけど、まだオレ、いろんなことへたくそでさ。うまくできないんだよな。それでちょっと落ち込んでた んだ」
 こんなこと、シエラに話したって仕方ないよな。
 彼女は黙ってオレの話しを聞いてからたずねた。
「ヤスキって、今日タイラーのお店にきた人?」
「そ。黒いコート着た人」
 シエラは、薄い眉をちょっと寄せた。
「シエラ、あの人こわい」
「なんで? ヤスキは怖いことないよ。オレの今の雇い主だぜ?」
「でもこわいの」
 頬を膨らませて、シエラはオレに抱きついた。
 まあ、小さな子っていろんな事怖がるしな。
 ヤスキは黒い服を着ているし、だから怖いと思うのかもしれない。
 オレはそんなことを思いながら、彼女の肩をぽんぽんと叩いてやった。
「明日もおしごと?」
「そう。シエラ、タイラーのとこで待てるよな?」
 オレの胸に顔を押し付けたまま、こくんとうなずく。
 やっぱり、寂しいかな。  あまり一緒にいる時間とってやれないし。こういうときに甘えてるんだろう。
「あのさ、シエラ」
「なぁに?」
「報酬入ったら、ホットケーキ作ってやるからな。一緒に食べよう」
「ほんと?」
 シエラは顔を上げた。ぱぁっと、光が差したような、明るい笑顔。
「ほんとね? いっしょよ?」
「もちろん。指きりな」
 シエラはうれしそうに指を絡める。
   ああ、オレは、これがあるからやっていけるんだ。



「あいつはまだガキだぞ」
「俺もガキだった」
 ヤスキの返答に、タイラーは口の方端をあげる。
「過去形なのか? 何か、意地になってるだろ。おれから見ればお前だってガキだよ」
 ヤスキは何も答えなかった。
 しばらく沈黙が続く。
 タイラーはしばらくヤスキを眺めた後、止めていた薬莢を磨く作業を再開した。
「・・・・・・何を考えてる?」
 タイラーが呟くように問いかける。
「何も」
 そう答えるヤスキの声はそっけない。それでは外れないタイラーの視線に、ヤスキはもう一度口を開く。
「・・・・・・確かめたいと、思ったんだ」
「何を?」
 タイラーの問いが、ヤスキの表情を一瞬固まらせた。
 ・・・・・・何を?
 俺は、何を確かめる気でいる?
 腹の底から、無性に可笑しさがこみ上げてきた。
 俺は何を、どういう手段で確かめようとしている?
 ヤスキが肩を震わせて笑い始めたので、タイラーは薬莢のひとつを取り落としそうになって、あわてて持ち直す。
「・・・・・・おい、どうした?」
「どうもしない」
「どうもしないわけあるか。お前と付き合ってもう長いが、そんな風に笑うとこなんざ見たことないぞ。天変地異の前触れか?」
 天変地異、ね。
 ヤスキは胸のうちで反芻する。
 そんな言葉すらもが、彼の笑いの呼び水になった。
「はまった。なかなか抜け出せないもんだな」
 それだけ言う。
「何が面白いのかわからんが・・・・・・食い物か? 変なもん食ったか、お前」
 気味悪そうにタイラーが自分を眺めているのを感じながら、ヤスキはカウンターに突っ伏した。笑いが止まらない。
 以前、『あいつ』に言った言葉がフィードバックする。

 ―――何かの排除と引き換えの変革で本物に成れると、本当に思っているのか?

 あれから答えは出なかった。そう言った自分に尋きたかった。
 ならば、何によってなら本物に成れる?
 何をなせば、本物への代償にたりる?
 可笑しいじゃないか。
 傑作だよ。
 そう問う俺は、いまから何をしようとしている?
 自分はまだ何かに執着できると、だから生きていると、生きていけるのだと、確かめたいだけだ。・・・・・・これでは、『あいつ』と一緒ではないか。
 可笑しくて、可笑しくて。
 乾いた目の奥に熱い疼きを感じた。
 それを打ち消したくて、こう言った。
「本当に亡霊は消え去ったのか、確かめたいのさ」



 オレは、入るタイミングをはずしたことを悔やんでいた。
 タイラーの店のドアに手をかけようとしたとき、声が聞こえたのだ。
 タイラーとヤスキの声だと思う。
 何を話していたのかはわからない。けれど、何か・・・・・・。
 そう、漏れてきた雰囲気に行動をとどめられて。
 次に聞こえた笑い声に驚いて、ドアの前で立ち止まってしまっていた。
 ヤスキの声、だよな?
 彼の笑い声なんて聞いたことがないが、ところどころでひっくり返る、苦しそうな笑い声だ。
 最後に聞こえた、亡霊って何のことだろう?
「どうしたの?」
 手をつないだシエラの呼びかけに、ふっとわれに返った。
「ごめん、なんでもない」
 笑って、オレはドアを開けた。
 中にいたのは、やっぱり彼らだった。
 シエラがヤスキを見て、オレの後ろに隠れる。
「夜から仕事なんて、珍しいんだね。外、結構寒いよ」
 少し、わざとらしかっただろうか。ヤスキが振り向いた。シエラがオレの陰から様子を伺ってるのを見て、面食らったようにひとつ、瞬きをする。
「こいつ、怖がりなんだ」
「ヤスキを怖く思うんなら正常だな。ほら、シエラ。おいで」
 タイラーが軽口を叩き、シエラを奥の部屋に連れて行く。寝かしつけてくれるんだろう。オレとヤスキは店を出た。
 寒いと思ったら、雪がちらついてきたようだ。
「あなたのこと怖いなんてさ。シエラ、変わってるよね」
 声を出すと、息が白く舞った。
「どうかな」
 静かな声が振ってきて、オレは彼を見上げた。
 ヤスキはただ前を見て大股に歩いていた。
 それきり、なんだか言う言葉もなくて、黙って彼の後を追う。
 ただ歩いていると、いろんなことが頭に浮かぶ。
 大きな通りでは、今頃クリスマスソングが聞こえるのだろう。この分では、今年は雪のクリスマスになるかもしれない。
 シエラが、喜ぶな。オレだってもちろんうれしい。
 クリスマスなんて、シエラと出会う前に祝ったこと、あっただろうか。
 二年前、何の機会だったか修道院の前を通りかかったときに抱きついてきた、女のこ。ちょうどクリスマスイブだった。頬を寒さに赤くして、ぬぐった跡も新しい涙を、目じりにちょっとつけて。オレをつかんで離さなかったシエラを、天使のようだと思っ た。
 オレたちは地下鉄に乗った。
 夜も結構更けてきたのに、空いている席はない。
 空いていてもヤスキは座らなかっただろうけど。
 オレたちはいつもと同じく、入ってすぐの手すりをつかんで立った。
 ヤスキと組んで何回か仕事をして、だいぶ彼のことはわかったように思う。
 彼は寡黙だ。必要なことを、短い言葉でしかしゃべらない。
 でも、今日の沈黙は何かが違うように感じられた。
 うまくは言えないけど、タイラーの店で彼が話していたことと、何か関係があるのかもしれないと、オレは漠然と思っていた。
 亡霊って、なんだろう。
 もしかして、ヤスキの昔のターゲットのことだろうか。
 ヤスキでも、しくじることはあるんだろうか。
 地下トンネルの黒い壁が、通り過ぎていく。



「ここが目的地ですか?」
 寂れたエリアに来て、ヤスキはうなずいた。
 たしかここはオレが生まれたころに封鎖された地区だ。元は大きな研究施設があったらしいが、今はがらんどうになった建物が並ぶだけ。それこそ、亡霊でも出てきそうだった。
 ビルの間を強い風が通り過ぎて、さらさらの雪を舞わせる。どうにも視界が悪い。
 何でこんな時間なんだろう。人目を避けたいんだったら、昼間でも事足りる。こんな場所に、誰か来るとは思えない。
「ねえ、今日の仕事って、どんなのですか」
 あんまり寒いから、自然と足踏みをするような格好になって、ヤスキに訊く。彼は寒くないんだろうか。立ったまま動かない。・・・・・・コート、上等そうだもんな。
「殺しだ」
 こともなげに言ったヤスキに、オレはちょっと背筋が寒くなった。それを隠すように、へえ、と返す。
 ヤスキの専門は暗殺だけど、今までオレはそのアシスタントをしたことがなかった。ちょうど違う依頼ばかりだったのだ。いつかは、と思ってはいたが、目の前に出てくるとなんとも厭わしく感じる。
「こんな場所に、誰が来るんですか?」
「もう来ている」
 その言葉にオレはびくっと肩を震わせた。あたりを見渡す。
 ・・・・・・誰も、いないと思うんだけど。
「ヤスキ、驚かそうったって・・・・・・」
「嘘じゃないさ」
 冷静なその声が、オレに違和感を起こさせた。
 ヤスキは、誰を、殺そうとしている?
 いやな汗が背中にわいた。
「誰を殺すの? オレの知ってる人?」
 彼は、ゆっくりと、正確に発音した。
「俺さ」
 思わず耳を疑う。
 彼の顔を見る。静かな、感情の測れない顔。
「君が―――俺を、殺すんだ」
 何も言えなかった。吸い込んだ空気が、のどに落ちる寸前、音を立てたように思える。口の端が、引きつるように上がった。
「は・・・・・・いやだ、何を・・・・・・何、言ってんですか」
 言葉がもたついたのは寒さのせいじゃない。
 怖いと思った。
 例えば自分が殺されるより、そんなのは怖いと思った。
「ねえ、ヤスキっ!!」
 自分の、泣きそうな声が、白くちらつく闇に響いた。



「ここは、墓場なんだよ」
 やさしいくらいの声音で、ヤスキは言った。
「昔の俺と、俺が殺した亡霊と、そして、今の俺の」
 ふ、と笑って、
「殺しきれなかった亡霊、か」
「・・・・・・亡霊って?」
「俺を殺そうとした男だ」
「でも、そいつは死んだんでしょう? 俺が殺したって、今、そういいましたよね。どうして、そんなに気にかけるんですか」
 ヤスキは、今まで何人も。数え切れないほどの人を殺しただろう。その亡霊ってそんなに特別な人だったんだろうか。
「あいつは俺を殺すことで、自分を確立しようとした」
 低い、ヤスキの呟き。何のことだかオレにはわからない。
「俺はあいつを殺しても、自分を確立することなんてできなかった。取り戻したって、本物になんか成れやしなかった」
「・・・・・・オレがあなたを殺したとして、あなたは? 本物とかいうのに、成れるんですか」
 オレは言葉を選びながらそう言った。
「君によって喪われる事を恐れるのならば、恐れた俺が本物なのだろう」
「本物のあなたが残れば、亡霊は消え去ったということになるんですね?」
「そうだ」
 ヤスキは、自分が殺した男と同じ感情が、自分にもあるかもしれないということを恐れているんだろうか? それとも、それを皮肉に思っているんだろうか。
「死ぬとか、殺すとか、それで確かめるなんてそんなの・・・・・・そんなのって、効率悪いですよ。こんな方法じゃなくたって」
 オレは自分の靴に視線を落とした。少しだけ解けた雪が、茶色く汚れてこびりついている。
「・・・・・・俺は、それしか思いつけなかったんだよ」
 長く息を吐いて、彼は口元をぎゅっと引き結んだ。何かをこらえようとするかのように。
「さあ」
 静かな、穏やかとも言えるほどの彼の声の、その不思議な強制力にオレは懐から銃を取り出した。
 組織から支給されている銃。
 ヤスキとの仕事で、何度か引き金を引いた銃だ。
 ・・・・・・でも、オレはまだ人を殺したことはない。
「俺に向けて」
 声にしたがって、オレの体が勝手に動く。とても厚いもやを通して風景を見ているような感覚。
 麻痺した神経の片隅で、銃口越しにヤスキをみとめる。静かな顔。
 オレは、この人を、殺すのか?
「いやだ・・・・・・」
 かすれた声がオレの唇から漏れた。
 急速に現実感を取り戻す視界。
 震える腕で銃を下ろした。
 鼻が、つんと痛い。
 のどの奥が引きつった。
 ・・・・・・涙が、頬をつたった。
 止まらずに、後から後からこぼれてくる。
 オレは袖で顔をごしごしこすった。寒さでひりついて痛い。涙は止まらない。
 どうして、オレは泣いてるんだろう?
 ヤスキは戸惑ったような顔をして、それから、少し苦く笑った。
「ヴィトー」
 オレの名前を呼ぶ声。
 驚いて彼を見上げる。
 突然止まった涙の反動か、しゃっくりが出た。
 タイラーに聞いたんだろうか。組織に入るときに捨てた、オレの本当の名前。久しぶりすぎて、他人の名のような、聞きなれない音。
「・・・・・・君は、組織を出たほうがいい」
 彼の言葉がオレの中にゆっくり浸透していく。飲み込んだつばは塩辛い味がした。
「オレを試したんですか」
「君を、じゃない」
 ヤスキは軽く眉を寄せる。
「俺自身を試したかった」
「・・・・・・わかりません」
 オレは唇をかんだ。
 わからないなんて嘘だ。
 知らず、力がこもって、血がにじんだ。
 わかってしまったんだ。
 彼は、完全無欠なヒーローなんかじゃなかった。

 それは何も知らないオレが押し付けていた、勝手な幻想だったんだと。

「オレ、あなたに憧れていたんです」
 ヤスキは目を細めた。
 眩しそうな、堪えるような、傷ついたような、懐かしむような、顔。
 それは何に向けられていたのか、どんな感情なのか、オレは知らない。
 しばらくして、ヤスキは絞るように声を出した。
「君が、俺のようになってしまうのは・・・・・・もったいないな」
 それから、彼はオレに、先にタイラーの店に戻るようにと言った。
 自分は少ししてから帰ると言って、軽く片手を挙げた。
 オレはうなずいて、ひとりで駅のほうに歩き出した。



 雪はいつの間にかやんでいた。
 振り向いてみると、彼は雲間に覗いた月を睨んでいた。
「受け止めてやるよ、亡霊」
 低く呟かれた声は、オレにはそんなふうに聞こえた。



 タイラーの店に戻って、シエラの隣のベッドに倒れこむ。
 タイラーはいくつか訊きたそうにしていたが、オレは彼と目をあわさなかった。
 暗い部屋で、目を閉じないでいる。
 シエラの、規則正しい寝息が聞こえる。
 今日の、これまでの、いくつかの場面が浮かぶ。
 それらがオレをどう形作っているのか、確認するすべはない。
 何かがひとつかけても、今の形にはならなかっただろうことしか、オレにはわからない。
 ・・・・・・誰も彼もが、そういう思い出の中で生きている。
 誰も彼もが、そいつに作られて生きている
 時には鎖になって、時には支えになってけして離れないそれに。
 誰も彼もが。
 答えが出るのなんて、きっとずっと先のことだけど。
 でも。
 ・・・・・・それを知らないことにも気づけない、無責任なオレなんて、大嫌いだ。

 オレは目を閉じた。
 そうだ、明日は。
 明日は、シエラと一緒にホットケーキを食べよう。



Fin Decenber 8,2003 Hira


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