狂犬

 磨き終わった靴に、水が落ちた。
 雨でも降ってきたのかな。やだな、商売にならない。
 思いながらすぐにその水を拭いて、声をかける。「お客さん、あがりました」
 何か、一言二言返答があって、磨き台から足が上がって、コイン三枚が差し出される。いつもなら、それをポケットに入れて、次のお客を待つのに。声をかけても足が動かない。
「お客さん?」
 みあげる。靴磨きを頼んだ、恰幅のいい男。その腹から突き出た、鈍く光る金属。
 思わず飲み込んだ硬い唾。
 

 金属の先に溜まって、落ちる、紅い玉。ああ、さっき靴に落ちてきたのは、水じゃなくて、


血、だ。


 見ている間に、腹からそれは抜き取られて、男がくずおれる。
 のどから、自分のじゃないようなくぐもった音が出て、私は座っていたレンガごと後ろにひっくり返るような格好になる。あとずさる。腰を強くぶつけて、痛い。
 男の、薄くなった後ろ頭が目の前にある。胸が悪くなる錆の臭い。背中の布地が濃い色に染まってけばだってる。
 ぶん、何か、振る音。
 男が立っていたところに、長いナイフをもった黒い影がいる。
 逆光になってよく見えないのに、頸にある骸骨のタトゥーだけ目に焼きついた。
 影の中に、白く見える部分ができて、広がる。
 歯を見せて笑った、その顔が。
 暗い路地にあんまり不似合いで空恐ろしくて、いつの間にか砂をつかんでいたこぶしが震えた。


「お前、何ができる?」
 しゃがれた、少し高めの声が振ってきた。
 何をいっているのかよくわからない。鶏に似た声、しびれたように頭がうずく。
 影は倒れた男を蹴飛ばすと、しゃがみこんで私を見た。
「何ができるのか、聞いてんだ」
 頸の骸骨が哂ってる。銀色が閃いて。私の首に添えられる。
「口は、きけるか?」
 暗い路地。黒い影。背中の冷たい石壁。やさしいような、静かな声音。私の首に、ゆっくりと、冷たい刃があたって。
 うなずくことすらできなくて、私はほんの少し、あごを引いた。
「くつ・・・・・・靴が、磨ける」
「俺には必要ないな」
 なんとか搾り出した言葉はすぐに切り返された。
 眼だけ動かして影の靴を見ると、埃もついていないくらいにぴかぴかに光っていて。上等な黒い色。今まで見たこともないような、黒。
 私の動きがさも楽しいというように、歯を見せて笑いながら、影はいった。
「奥歯が疼くんだよ・・・・・・殺せば、治ると思うか」


「待って」


 首に痛みを感じて、私は悲鳴じみた声を上げた。
 何でこんなことになったの?
 今日の仕事が終わったら、久しぶりに何かを食べて、早めにいい寝床を探してって。
「私、何でもやるから」
 思ってたのに、いつもと何も変わらなかったのに。
 帰りたい、帰りたい帰りたい。寝て、覚めて、ひりついた咽を感じれば、夢だってわかる。
「何でもできるようになるから、あなたの役に、絶対立つから」
「だから?」
 耳元で囁いた声に。
「だから、お願いだから・・・・・・」
 涙が伝って、首の傷にしみる。
 客の男の流した血が、私の足まで届いた。
 その生ぬるさに、食いしばった歯から、息を洩らして。
「―――殺さないで・・・・・・」


しんと音が止まった路地で。
金色にも見える狂犬の眼を、影は。
ゆっくりと、細めた。


Fin June 25, 2005 Hira



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