追想コラージュ/うつくしいもの


 たとえば破滅と引き換えにしても惜しくはないほどの圧倒的な欲動。

 眼前に迫る海面に飲み込まれそうになっても引けない操縦桿。
 このままのスピードで突っ込めば叩きつけられて機もろともばらばらになるのがわかっていても。
 そのきらめきが自分を覆いつくし個という存在がなくなるまで、
 あるいは
 何億回と繰り返されるリフレインの中に還っていくまで。そう、きっとあの夏の日に、私も。

 それだけがすべてと感じるその場所で誰もいない場所で
 思考の中心には、彼の笑顔だけ
 あの夏一度だけ出会った面影は、後戻りの効かない透き通った喜悦を私の胸に刻みつけていった。

「きれいだろう?」
 父からもらったビー玉を割ってしまった私に、彼は言った。
 突然現れた少年に驚いて、言われた言葉にも驚いて、ただ呆けたように見つめ返したのを覚えている。
 父の田舎。
 皮膚を灼く熱線がそのまま音に変わったかのような蝉時雨。
 こめかみや襟足を伝うひんやりとした感覚。
 治りかけのひざ小僧がむず痒さを感じる、そんないつもの夏休みの午後。
 私の足元には、二つに割れてしまった大きなビー玉。
 自分の不注意で割ってしまったそれをもう一度見たとき、悔しさにも似た感情がこみ上げてきて、私は唇をかんだ。
 少年はそんな私を見て、大人びた微笑を浮かべる。
 何かの式の途中に抜け出してきたのか、田舎にはとても不釣合いなつり半ズボンの礼服姿。
 白いシャツの照り返しが眩しくて私は目を細める。
「壊れるものは、きれいなんだよ」
 少年は割れたビー玉の半分を拾い上げる。少し気後れしていた私は、そのときになってようやく、あぶないよ、と蚊の鳴くような声を上げた。
 私の言葉など聞こえなかった風情で、彼は手にしたそのガラスの欠片を眺めた。
「陽に、透かしてごらん。君も」
 割れてしまったガラスなんてと、どこかしら彼をいぶかしく思いながら、だが一方では彼の落ち着いた雰囲気に憧れのようなものを感じながら、私はおずおずと彼の行動に倣った。
 太陽を見ないように、そのガラスを光に向ける。

 拡がった光彩はモザイクめいた世界を自らの中に取り込んで発散させる。
 日差しやむっとする空気、どこかの縁台のスイカのにおいなどが感じられる気がする。
 そんな光景をビー玉は透過させる。
 もしかしたらそれを味わうただこの瞬間のためだけに存在していたかのように。
 自分を貫かせ、拡散させるそのために割れたかのように。

 その光に陶然として言葉も出ない私の横で、少年の声がしていた。

―例えば、崖の上に立ったことはある?
 少し身動きをするだけで、足元の小さな欠片がはるか下方に転がり落ちていく。
 それをやがて飲み込む海も、映す鏡としての空も、ぞっとするほど美しい光に満ちている。
 頬に当たる風や梢の揺れる音が突然意識される。
 その接触から得られた感覚の全てを留めておきたいと切望する。
 けれどそれは、足を踏み出したその瞬間になくなってしまうから味わえる思いだ。
 主体としての自己が散逸する間際にこそ知覚されうる現在。
 溺れる直前に垣間見える光の美しさは、生に対する欲求の強さではないよ。
 欠乏を補うための緊張状態ではなくて、むしろその間逆にある境地。
 ただ、全ての意思たちを理解できた満足。全うできた情動。
 そこに愛惜はない。
 そう‥‥‥どれもみんな、失ってしまうから、美しいんだよ。

 彼の語る言葉は、当時の私に半分も理解できるものではなかった。
 ただ私とそう年の変わらないこの少年の口調が、先生も使わないような言葉を自在に操ることが不思議で、彼はいったいどんな家で育ったんだろうとそんなどうでもいいようなことを私に考えさせた。
 楽しそうに、割れたビー玉を手のひらで転がす姿がとても印象的だった。
 『美しい』などという、それまで使ったことのなかった言葉は、ほんの少しの衒いとともに私の胸に灼きついた。
 割れたビー玉の反射と、少年の静かな口調と、眩しい白いシャツのイメージで。

 思えば、そう。
 彼の言葉を理解したくて私は、今ここにいるのかもしれない。
 空と、海の間をただひとりで飛ぶ小型飛行機。
 さまざまな光景を見るそのたびに彼のことを考えた。
 夕刻、太陽がこの世に別れを告げる瞬間、死の叫びのような凄絶な紅い光が空を満たすさまも。
 どこからか流れてきた小さな花びらが海面に浮き沈むその姿も。
 コクピットのガラス一枚を隔てた手の届かない世界も。
 彼はどんな風に評し、何を語るだろう。
 どんな眼でそれらを見るのだろう。
 私はいつもそれを思い描いてみた。
 ただ一度だけ出会った少年。
 あの後祖父や父に訊いても、そんな子は知らないといわれた。
 祖父の家に行くたび、いくら探し回ってもあの少年に関するどんな小さなこともわからなかったのに。
 彼から受けたこの思いの強さだけが私に棲みついてしまった。
 もしかしたら、人を恋うるとは、こういう感情のことを言うのかもしれない。
 己の胸に染み付いたその存在を追い、その存在とひとつになることだけを希求することを。

 悲鳴を上げ続ける高度計。ぶつかる、その瞬間。
 引くことの出来ない操縦桿を強く握り締めたまま私は笑い出していた。


 それは美しいものに溶けて行く、極限の歓喜だった。


Fin June 24,2006 Hira


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