「ホーエンバーグが陥落したぞ!」 辻の号外売りが張り上げた声に、キーグの動きは止まった。 受け取り損ねたつり銭が石畳を打つ。 その音に、彼は戦場のあの日を思い出した。 果物屋の主人が悪態をつきながら小銭を拾い上げ、彼に渡そうとして眉をひそめる。 「あんた、大丈夫かい? すごい汗だが・・・・・・少し、休んでいったほうがいいんじゃないのか」 キーグははじかれたように顔をあげた。群青の目が主人の視線とぶつかる。 心配そうな主人の顔。 いや、それはあの日の、ヒルネスの顔か? 驚愕に見開かれた、砂色の目。周囲の喧騒。鋼のぶつかる音、硝煙のにおい・・・・・・。 キーグは乱暴にかぶりを振った。襟足まで伸びた黒髪が揺れる。 「なんでもない・・・・・・大丈夫です、すみません」 小声で、早口につぶやいて彼は走るようにその場を去った。 辻には、突然の知らせと号外を求める人々の騒ぎが残った。 ◇ ◆ ◇ 「お兄様ったら、また政治の話ばっかり」 焼きたてのパイを盆に乗せた若い女性が、おだやかに言った。 「仕官したてのキーグにはきっと退屈だわ」 ねぇ? と、やわらかな微笑とともに、キーグの前のカップに茶が注がれる。 「そんなこと、ないです」 全身を緊張に硬くして彼は答えた。 「本心をいえ、キーグ。何も硬くなることはない」 豪奢な金髪を軽く後ろへ流したヒルネスは、にやりと笑ってカップを口に運んだ。 それから、キーグに身を寄せて、小さな声でささやく。 「・・・・・・それとも、その緊張はレイシアの前にいるからなのか?」 「隊長!」 顔を紅くして声をあげたキーグに、若い女性―――レイシアは、不思議そうに首をかしげる。そのしぐさに、キーグは余計に紅くなってうつむく。ヒルネスは愉快そうに笑った。 「おまえにならくれてやってもいいさ。もっとずっと、手柄を立てて地位が上がったら、だがな」 「ライバルが多すぎますよ」 奥に下がる彼女を横目で見送りながら、キーグはつぶやいた。 「蹴散らせばいい」 さらりというヒルネスに、キーグは気おされそうになる。 「ほしければ貫き通して見せろ。それぐらいの奴でなければ、俺の妹はやれん」 かなわないな、という思いがキーグの口元に笑みを刻ませた。 手に入らないほど、輝きを増す宝石のような美しさは、今もこの胸に消えない。 ◇ ◆ ◇ 「何故貴様がここにいる」 鋭い砂色の眼光に、返す言葉はなかった。 「貴様の部隊はもっと先にいるのではないのか」 胸倉をつかみあげられる。 「答えろキーグ!」 「・・・・・・陛下は、間違ってるんです」 「なんだと?」 ヒルネスの目がすっと細くなった。 キーグは、ぐっとつばを飲み込んで、 「こんな遠征、あっていいはずがないんです。隊長だって・・・・・・ご存知のはずでしょう?」 「口を慎め。一兵卒に陛下の御心が量れるか」 キーグが黙り込むのを睨んで、ヒルネスは胸倉をつかんだ手を離した。 「持ち場にもどれ。滅多なことを口にするな」 キーグは襟を引っ張って正した。 「・・・・・・おれ、軍を出ます」 「馬鹿をいえ」 「陛下の貪欲さは、いずれこの国自体をも食らうでしょう。おれは、それについていけない」 振り上げられたヒルネスの手に、キーグの頬がたかく鳴った。瞳が、苛烈に燃えている。 「この、裏切り者が」 ◇ ◆ ◇ あの城が落ちたのなら。 キーグは石畳を歩いていた。 ヒルネスは、きっともう生きてはいない。 愚かともいえるほどに誇り高いあの男は、陥落を悟ったとき自ら命を絶っただろう。 それは想像ではなく、確信だ。 ヒルネスは、自分を、部下を、そして剣を懸けた陛下を裏切れる男じゃない。 キーグはそれほど強くはなかった。 手に入れることを放棄する弱さと、 自分さえ捨てさるための強さ。 弱さを選んだキーグは生きている。 ・・・・・・それでも彼は、ヒルネスのようになりたかった。 石畳を打つ音が早くなる。 どこに急ごうと、戻れる場所などありはしないのだけれど。 一番帰りたいあの場所は、何と引き換えても惜しくない場所は、もう存在しないのだけれど。
Fin February 2, 2004 Hira
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